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司馬徽しばき生年不詳没年不詳)、中国後漢末期の人。字は徳操。号は水鏡。人物鑑定家として有名。潁川郡(現在の河南省東南部)の人。

荊州に移り住み、龐徳公を兄として仕えた。水鏡の号は龐徳公が名付けたものである。なお、諸葛亮を臥龍、龐統を鳳雛と呼んだのも龐徳公であるという。司馬徽龐統の才能を見出し、徐庶向朗などを門下生とした。

概要

劉備に「臥龍・鳳雛は諸葛亮と龐統のことだ」と教えたといわれる。

荊州を支配していた劉表には仕えず、隠士として暮らしていた。『世説新語』の注に引く「司馬徽(別)伝」によると「好々(よしよし)」が口癖で、何を言われても「好々」と答えていた。司馬徽の妻がそれを咎めると、笑って「お前のいうことも、またよしよし」と答えたという。劉表司馬徽の登用を勧めるものがあったが、こうした態度を見て劉表は「世間の人はいい加減なことをいって(司馬徽を持ち上げて)いるが、ただの書生じゃないか」と断ったという。司馬徽は劉表を凡人と思っていたので、政争に巻き込まれないように政治談義に手を出さず、このような態度を取っていたのだという。

劉表死後、劉琮が曹操に降伏すると、曹操に召し出された。曹操は大いに用いようとしたが、間もなく死去した。

『三国志演義』やそれをモチーフとした現代の三国志系読み物などでは、「水鏡先生」は悉く老人然とした容貌で描かれている。ただし、『演義』の文中には、水鏡の弟子である童子の台詞として「水鏡先生は龐統より5歳年上」という言葉があり、史実上は年齢不詳ながらも、『演義』は司馬徽を老人と見ていないことがわかる。

“好々”司馬徽伝における挿話

或る時、知人が来て、悲しげに、自分の子の死んだ由を告げると、司馬徽は相変わらず、好々とのみ答えていた。知人の帰ったあとで、彼の妻が、「いくらあなたのお癖とはいえ、お子さんを亡くした人にまで、好々とは、余りではございませんか」と、たしなめた。すると司馬徽も、われながらおかしくなったとみえ、好々、おまえの意見も、大いに好々。 といったそうである。

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