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陳紀(ちんき)

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陳紀 (ちんき 130年頃~200年頃) 字・元方、穎川出身、陳羣の父。

概要

三君

父の陳寔、弟の陳諶と共に「三君」と呼ばれる程高い名声があった。 大臣クラスの人物から任官の招聘があった時はたいがい三人一緒であり、礼物が山をなして届けられ、使者が次々とやって来たという。 また、予州の人々は三君の肖像を書いてかかげていた。

党錮の禁と父の死

十常侍が権力を持ち出すと、陳寔と共に荊山に移り住んだ。 しかし、陳寔を師と仰ぐ者が次々と現れ、党錮の禁が解け、朝廷から招聘があっても応じなかった。 それからしばらくして陳寔が亡くなると、陳紀は悲しみのあまり欧血して気絶する。

董卓と陳紀

189年、董卓が洛陽に入ると陳紀を招聘して侍中、平原の相に任命する。

しばらくして、董卓が長安へ都を移そうとしようと思った頃、董卓は陳紀を呼び出していった。 「三輔(京兆、左馮翊、右扶風)の土地は、南に長江と淮水が有り、北に黄河と渭水が有り、土地が肥えて美しく、陸海共にに良い土地と聞く。今関東に兵が起こっているので、洛陽に滞在することが出来ないのではないかと危惧している。長安はかつての都であるのだから、西へ都を移そうと思うのだがどう思うか?」 それに応えて陳紀が言う。 「天下は正しい道に適っているのであり、守りは四方の異民族のためにあります。ほどよく徳を治める政治をして、付き従わないものを手名付ける方が宜しいかと。至尊(皇帝・都)を遷されることは、恐れ多い計画です。馬鹿馬鹿しい話ではありますが、貴方様は、朝廷の職務を公卿に任せて、関東の兵を討伐されてはいかがでしょう。もし従わぬのであれば武力をもって威嚇すればよろしいかと。今、関東に兵が起こって民は我慢しています。もしへりくだった政治をし討伐すれば、多数の犠牲者が出るでしょう。もし大軍を率いて満足しようと思うなら、きわめて危険であるというものです」 董卓の気持ちとは逆だったが、陳紀の功績を敬い、蒸し返すことはなかった。

(口語文は意訳)

その後、陳紀は司徒に推薦されたが、争いが方々に起きているのを見て、朝廷から離れようとした。

その後

しばらくして、太僕、尚書令を受けることになる。 195年、大尉の地位を袁紹が譲ろうとしたがそれを受けず、陳紀は大鴻臚を受けた。

数年後、在官のまま死去。71歳。

肉刑(身体に傷害を与える刑罰)について

陳紀の嫡男・陳羣とその主・曹操との会話より。陳紀の主張。

「漢は肉刑を廃止して鞭打ちの刑を増やしました。本来愛憫の情から発したものですが、死ぬものが非常に多く、いわゆる名称は軽くても実質が重いことになっております。名称が軽ければ法律も犯しやすく、実質が重ければ人民を傷つけます。『尚書』に”これ五刑を敬しみて、もって三徳を成せ”とあり、『易』には劓(ぎ/はなそぎの意味)、刖(げつ/足切り)、滅趾(めっし/足首を傷つける刑)の法を書き記しておりますが、政治をささえ教化を助け、悪をこらしめ死刑をやめるためのものとしてあるのです。そのうえ人を殺した場合死によってつぐなうのは、古代の制度に合致しておりますが、人を傷つけた場合までも、(むちうちによって)その身体をそこない毛髪を断ち切るのは道理からはずれています。もし古代の刑を採用し、姦淫を犯した者は蚕室(きんしつ/宮刑を施す部屋)に渡し、盗みをはたらいた者はその足を断ち切れば、永久に淫蕩や人の家にしのびこむ悪事はなくなりましょう」

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