闞沢(
かんたく/k‘an tsê、
182?~
243年)
字は
徳潤。会稽郡山陰県の人。
孫権時代の
呉の学者にして高官。
概要
代々農夫の家柄ながら学を修め孝廉に察せられて銭唐県の長を皮切りに出世し、
219年孫権が
驃騎将軍になった時まねかれて
西曹掾になった。以後
尚書、
中書令と昇進を重ね242年にはあわせて太子太傅(孫和の教育係)となった。また、儒学勤労(儒学に励んで功績があった)として
都郷侯に封ぜられた。
人物
その勉学の方法というのが傭書(人に雇われて書物を書き写す)をしながらその本を覚えるという一石二鳥の方法であった。各地で議論したり意見を述べたり、多くの書籍に目を通し、加えて暦の計算にも通じていたので、やがて郷里で博識の人として知られるようになり上記のように出世して行くことになった。謙虚で実直な人柄で高官になってからも身分の低い役人にも対等の礼をとった。朝廷においても重大な事柄にはいつも意見をもとめられ、人望も厚かった。亡くなった時孫権はその死を惜しんで数日間食事が喉を通らなかったという。見た目はあまり学がありそうな感じではなかったらしい。
逸話
ある時
蜀から
張奉が使いにやって来たことがあった。張奉は孫権の前で闞沢の姓名を分解してからかった。(どう言ったのかは残念ながら書かれてないから不明。)闞沢が言い返せないでいると、傍らの
薛綜がすかさず「蜀という字は何でしょう。犬(犭の事)がいると獨りになり、犬がいないと蜀となり、目を横につけて身を句(かが)め、腹には虫が入っている。」とやり返してくれた。(この後「呉は~」と続くが薛綜の項でないので省略。)
三国志演義では
赤壁の戦いの直前
黄蓋が偽投降する手紙を曹操に届け、怪しむ曹操を弁舌巧みに信用させ火計を成功に導いた。また、夷陵の戦いの際は陸遜を推挙したのも闞沢ということになっている。