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諸葛亮(しょかつりょう) - 事を謀るは人にあり 事を成すは天にあり

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諸葛亮(しょかつりょう/zhū gĕ liàng 、(181年234年8月23日)字は孔明諸葛豊の子孫。は忠武侯。伏竜臥龍という別称もある。

概要

晴耕雨読の生活

父(諸葛珪)を幼いころに亡くし弟諸葛均と共に叔父の諸葛玄に育てられた。 家族と共に徐州から南方へと移住し、諸葛玄は 豫章太守に任命されるが追放の憂き目に遭い、荊州へと移住し、劉備と出会うまで晴耕雨読の生活に入る。この時期に黄月英を妻とした。

三顧の礼

諸葛亮は徐庶の推挙により三顧の礼を受け劉備軍の軍師となり、天下三分の計を唱えた。劉表が死亡し、劉琮後を継ぐ際に、劉備に「荊州を奪う機会である。」と進言したが、義を重んじた劉備に退けられた。その後、曹操による荊州侵攻が始まり、劉備は孫権を頼り更に南へと逃亡する。この際、諸葛亮は偵察にきていた魯粛と共に孫権の元へ赴き、利害を説き同盟を締結させた。孫権・劉備連合軍と曹操軍により、赤壁の戦いが勃発し、曹操を撃退する事に成功した。その後荊州の南部四郡へと侵攻し、これを領地とした。

劉備の死

その後、同族の益州劉璋より張魯より領地を防備してほしいとの要請がくる。この時点で劉璋重臣の法正張松らは益州の統治者を劉備にしようと目論んでいた。劉備軍は益州へと赴いた。この際、諸葛亮は荊州へと残り、龐統が軍師として付き添ったが、流れ矢により死亡した為、諸葛亮は張飛趙雲らと共に益州へと向い、劉璋を攻略した。へ入り劉巴らと共に「蜀科」を制定した。その後成都を防備していたが、関羽の弔い合戦(夷陵の戦い)が起き劉備が大敗し白帝城にて病床につく。臨終の際に後の事を託した。

蜀の丞相として

かくして諸葛亮は事実上、蜀の全権を握る立場となった。鄧芝に派遣しへの侵攻を画策する。しかしその時期に雍闓による叛乱が起きこれを先に鎮圧した。その後北伐を繰り返したが、魏を打ち破れず病により陣中にて死去した。

容貌

身の丈八尺(約184センチ)あったという。

子孫

諸葛瞻の次男・諸葛京は蜀滅亡時幼少だった為、264年河東に移住を命じられた。長じてに仕え、江州刺史まで昇進した。 諸葛村には彼の子孫が住んでおり、家系図も残っている。

血縁

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