徐盛(じょせい/xu sheng ) (
生年不詳~
没年不詳) 字は
文嚮 徐州琅邪郡莒県の人
赤壁の戦い、
合肥の戦いや
儒須の戦いなど、呉軍における主要な戦いのほとんどに参加した。
概要
孫権配下の猛将
世が乱れてきたのを機に故郷を捨てて
長江を渡り、
呉郡に来た。
200年、
孫権が立つと、その部下となった。
別部司馬に任じられ、
柴桑で
黄祖の侵攻を食い止めることになった。
あるとき、黄祖の子
黄射が数千の兵を率いて攻めてきた。徐盛は僅か200の兵で迎撃し、これを破ったため、黄射は2度と侵攻しなくなった。
217年、
曹操が儒須を攻撃した。徐盛等が迎撃に向かっていたとき、乗っていた
蒙衝が強風にあおられて敵側の岸辺に乗り上げてしまった。部将たちは怖がって誰も出ようとしなかったが、徐盛は兵を率いて上陸し、敵を散々に打ち破った。
224年、
魏の
曹丕は大軍を率いて、
広陵まで進んできた。孫権は、
陸遜を総大将にしようとしたが、陸遜は
荊州の守備があって離れられない。そこで、徐盛は自ら志願して総大将となり、魏軍を迎え撃つこととなった。徐盛は、長江沿いに偽の城壁を建造しようとした。諸将は無意味だと反対したが、徐盛はこれを強行して偽の城壁を造った。曹丕はこれを見て驚き、折から長江が増水してきたこともあるため、軍を還した。孫氏の一族でも勇名をうたわれた
孫韶はこの機を逃さず、500の兵で魏軍に夜襲をかけ、不意を突かれた曹丕は命からがら脱出した。
性格
貧しい家柄の出身の周泰の統率化に入ることを嫌がった。その後、徐盛は非を悟り、周泰の命令に従うようになった。
221年、
劉備が呉を討とうとしていることを知り、孫権は魏に対して臣と称し、攻撃をかわそうとした。魏は
邢貞を派遣して孫権を
呉王に封じた。孫権は都の郊外まで出迎えたが、邢貞は傲然としていた。徐盛は「邢貞ごときと盟約を結ばねばならぬとは。恥ずかしいことだ」と言い涙を流した。
徐盛は自尊心が強かったようである。
血縁