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張紘(ちょうこう)

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張紘ちょうこう152年頃~212年頃)、子綱孫策孫権の重臣。

概要

孫策に仕える

若くして都で勉強し、高い見識をもって張昭と共に江東の二張と称されていた。中央の大将軍や高官からの仕官の誘いをすべて断って孫策に仕えると、孫策が江南に基盤を気付くため挙兵した際、参謀となって活躍した。孫策が張紘を得た際も、ひたすら口説いて頼み込んでようやく応じたようだ。

孫策は出兵するときは、必ず張紘か張昭のいずれかを随行させ、もう一方に留守を頼んだ。孫策は戦においては自ら先頭に立って軍を率いようとしたが、張紘が「総大将たるものが軽々しく行動して万一のことが発生すれば全軍が混乱するでしょう」と諌めると、孫策もこの諫言に従ったと言う。

孫策の死

張紘は孫策の命で曹操の内情を探るべく使者として許昌に派遣された(学のなさを常々なじられていた孫策が見返すために学識のある張紘を送ったとも)。すると曹操は張紘を気に入り、官職を与えて都に留め置こうとした。その間、自国では孫策が死亡してしまった。曹操はこれに乗じて孫家を討とうとしたが、張紘は「他人の死に乗じて人を滅ぼし古からの人の道に反するよりは、恩義をかけて取り込むべきです」とうまく曹操を説得して、孫策の後を継いだ孫権に官爵を与えさせた上、孫権を懐柔してくるとして孫家のもとに戻ってくることに成功した。

遷都

張紘は孫権からも厚い信任を受け、孫権は臣下の者を字で呼んでいたところ、張紘と張昭だけは張紘を「東部殿」、張昭を「張公殿」と呼んでいたと言う。

孫権は拠点をに置いていたが、211年に張紘が「帝王の気がある」として秣陵に移すよう進言した。孫権はこれに従い、ここに本拠を移して翌年に秣陵を「建業」と改めた。それからまもなく、張紘は孫権から家族を建業に連れて来るように言われ、それに従って家族を迎えに行く途上で病死した。

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