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官渡の戦い(かんとのたたかい)

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官渡の戦いかんとのたたかい)は、200年官渡津近辺で行われた袁紹曹操の大規模な合戦。 また、白馬の戦いの前後から倉亭の戦いなどを含め、袁紹と曹操の中原の支配権を争った一連の抗争の全体をいう場合もある。

概要

発端

黄河をはさんで北の冀州并州青州幽州を支配した袁紹と、南の兗州司州豫州徐州を支配した曹操だったが、劉備が徐州を曹操から奪ったことから端を発した。 劉備は陶謙から徐州を託されていたが呂布にのっとられ、曹操の援助を得て呂布を倒していた。 劉備は曹操から豫州の刺史に任命されていたものの、199年に造反して徐州に入り、独立した。 翌200年に曹操はこの徐州を攻め、劉備は再び徐州を追われ、袁紹のもとに落ち延びた。 曹操はそのまま白馬津に陣を構え、対岸の黎陽津の袁紹軍と対峙した。

白馬の戦い

袁紹は陳琳の書による檄文を発して曹操に宣戦布告すると、渡河してきて白馬津の劉延を攻撃した(白馬の戦い)。 この戦いでは、曹操軍が、張遼および捕虜になっていた劉備の配下武将の関羽の活躍で顔良を討ち取り、さらに荀攸の策略によって文醜を討ち取ったうえ、撤退している。

官渡決戦

袁紹軍の物量作戦に苦戦し、許都のすぐ北、喉元と言われる官渡まで後退した曹操は、防戦一方となっていった。 はじめは袁紹軍の高く積み上げられた土塁や高楼を新兵器の発石車霹靂車)で破壊するなど応戦していたが、大兵力を擁する袁紹軍に威圧され逃亡する兵も多く出た。 また、曹操陣営では元黄巾賊将の劉辟が叛乱を起こし、さらに劉備がこれと結託、曹仁が鎮圧したものの、今度は劉備は龔都と結託して暴れまわった。 さらに戦いが長引くと曹操は兵糧に困窮し始め、弱気になって許都の荀彧に相談すると、「必ず勝てるからがんばって」と励まされていたという。

救世主?

許攸は若い頃、袁紹の親友で曹操とも交友があった。 しかし袁紹軍の参謀となると、強欲で金銭にけじめがないと言われて袁紹から疎まれ、この戦いでも進言はことごとく却下されていた。 また家族が法を犯して処罰を受けた。 許攸は袁紹を見限り、曹操陣営に投降した。

許攸は曹操軍が兵糧に困窮していることを見抜いており、そのことを曹操に告げると、曹操は「ではどうしたらよいか」と許攸に尋ねた。 そこで許攸は烏巣の輜重隊の警戒が薄いこと教え、これを奇襲することを進言した。 群臣の多くは袁紹の罠だろうと許攸を疑ったが、曹操および賈詡と荀攸はこれを信じ、曹操自ら軍を率いて奇襲を決行した。 この奇襲により、烏巣を守備する淳于瓊の軍は壊滅し、袁紹軍は大軍を支える兵糧を多く失った。

袁紹の失策

烏巣が襲われたとの報を受けた袁紹陣営は、郭図が手薄になっている許都を襲撃すべきと進言し、これに対して張郃が烏巣を救援すべきと進言した。 そこで袁紹は両方の意見を入れ、許都攻撃の軍と烏巣援軍を同時に出したのだが、このとき許都攻撃を、逆の進言をしている張郃および高覧に命じた。 張郃が許都襲撃を成功させれば、自ら郭図の進言が正しく、自分の進言が間違っていたことを証明するようなもので、この袁紹の判断は非常に愚かだったと後世まで評される。 案の定、張郃・高覧は曹洪に防がれ、そのまま曹操軍に投降してしまった。 さらに烏巣援軍も敗れた。

これで一気に戦いの形勢は曹操軍に傾き、袁紹軍は大きな被害を出して戦いの継続をあきらめ、撤退した。

倉亭の戦い

撤退した袁紹は、敗北による混乱が原因で多くの叛乱が勃発しその討伐に追われるも、翌201年にはこれを全て治めて再び曹操を攻め、両軍は倉亭で激突した。

前年に大敗していながら袁紹軍は曹操軍と一進一退の攻防を繰り広げた。 すると曹操軍の程昱十面埋伏の計を進言、曹操はこれを採用して10箇所もの伏兵を配置したうえ黄河を背にして後退。 敵を誘引して一気に攻勢に転じ、取り囲んで袁紹軍を壊滅させた。

この敗戦のショックか、袁紹は退陣中に発病、翌年に病死した。

その後

袁紹の子袁譚袁尚が軍を引き継ぎ、互いに後継者の地位を争いながら曹操とも戦った。 袁譚はあるときは袁尚と戦うために曹操の元に身を寄せたこともあった。 結局、袁尚・袁譚とも順次曹操に滅ぼされ、曹操は中原を手中に収めた。

劉備は劉表のもとに逃げ込んている。

おかしな点

史実とされる記述におかしな点が多々あり、これは裴松之も指摘している。 官渡での決戦に至ったとき、袁紹軍10万以上に対して、曹操軍は1万しかいなかったと言う。 青州黄巾党を糾合し数年前には徐州の陶謙を大軍で攻めたと言われる曹操が1万しか出せなかったと言うことは無く、裴松之注ではこの時点でおかしいとしている。

また、史実では曹操軍の方が先に兵糧に困窮したとあり、許都から目と鼻の先の官渡で1万の軍を支えられなかったと言うのは不自然である。

しかし、敵が大軍である場合、自己を弱く見せて敵を引き込み、敵の兵站を伸ばした上でこれをゲリラ攻撃し、敵の補給を絶って一網打尽にするのは常套手段であり、曹操軍があえて少数精鋭で戦いに望んでも不思議はない。 兵糧に関しても、もともとこの時、「曹操領は兵糧に乏しい」と沮授が進言していることから、曹操が兵を出したくても1万しか出せなかった可能性はなくもない。

他に、曹操軍は混乱する袁紹軍の8万を捕らえ、生き埋めにしたとある。 これも、そのような数を捕縛するのも難しいし、わざわざ埋めるなどと言う殺し方をするのも不自然とされる。

いずれにせよ、一般的に史実等には創作・誇張が混入していると考えられ、それは曹操軍の数の点であって、戦いの経緯を見れば実際には袁紹軍10万に対して曹操軍4~6万ぐらいだったであろうと推測されているようだ。

その他

曹操はこの戦いより以前に、郭嘉に対して袁紹への対応策を尋ねていた。 郭嘉は「曹操公には10の勝因があり、袁紹には10の敗因があります。それは道、義、治、度、謀、徳、仁、明、文、武です」と答えていた。

袁紹軍の参謀・田豊は曹操が徐州の劉備を攻めたとき、「留守になっている曹操の本拠を攻める絶好の機会です」と進言したが、袁紹は子の仮病を使って拒んだ。 田豊は杖で地面をたたいて悔しがったと言う。 さらに袁紹が曹操に宣戦布告すると、「許都と徐州を曹操に固められたからには、持久戦に持ち込むのが得策であり、防備しながら曹操の後ろを三年ほど撹乱しておれば勝利を得ることは容易いでしょう」と進言した。 しかしこの案も退けられると、すかさず政敵だった逢紀が讒言し、田豊は投獄されてしまった。 その後、袁紹が敗北すると、逢紀が「田豊は自分の予想通りだと笑っておったそうです」と嘘か本当かわからないような告げ口をし、田豊は処刑されてしまった。

参謀・沮授も持久戦を進言したときがあったが、袁紹は却下して兵を進めている。

三国志演義では

顔良は曹操軍の魏続宋憲を討ち取り、さらに徐晃を追い払った。 しかし関羽が来ると劉備が自陣にいるため戦おうとせず、このため不意を衝かれて討ち殺されたと言う。 さらにこのあと文醜が張遼徐晃の軍に勝利したが、これも関羽が討ち取ったとしている。

袁将軍70万に対して、曹操軍は10万ほどだったとしている。

淳于瓊が曹操の奇襲に簡単に敗れたのは、酒飲みで戦時中も宴会に興じていたからだとしている。 また、曹操は淳于瓊を生け捕りしたが、戦闘中に彼の鼻を切り落としてしまっていため、許攸から「淳于瓊はもはやあなたへの恨みを忘れることは無いでしょう」と言われ、仕方なく殺したとされるのに対し、演義劇中では、曹操は捕らえた淳于瓊は鼻、耳、指を切り落として袁紹に送りつけたとしている。

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