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太史慈(たいしじ) - 針鼠

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太史慈たいしじ/tài shǐ cí 、166年206年)字は子義。はじめ劉繇の家臣。後に孫策に仕える。

概要

人物

若いときから学を収め、弓の名手で武勇にも優れるといった勇将。

容貌

正史に七尺七寸あったと記されている。

孔融の恩

劉繇に仕える前は郡の官吏として務めていたが、このとき自分が務める郡のため州の文書を奪って破棄する、というトラブルを起こして逃亡したことがあったが、このとき孔融の助けを受けた。 逃亡中、太史慈の母の面倒を孔融が見ていたのである。 そのため孔融が黄巾党の残党に攻められたときは、これを助けるよう母に言われ孔融のもとに駆けつけた太史慈が、単騎で敵の包囲網を突破して劉備に救援を求める役目を果たしたことがあったという。

劉繇に仕える

揚州刺史である劉繇に招かれ将として仕えるも、劉繇は許邵許子将)が太史慈のことを前途のようなトラブルを起こす問題児というように評したのを聞いたため、重くは用いなかった。

孫策と戦う

195年に劉繇は孫策に攻められ、参謀たちは孫策を迎え撃つは太史慈が適任と進言したが、劉繇は上記のように太史慈を軽視していたため偵察任務のみ与えた。

太史慈の代わりに出陣した張英が破れ、その敗残兵などを吸収して大軍になった孫策軍に本拠地である曲阿まで迫らると、やっと太史慈に軍の指揮権が与えられたが、時すでに遅く、孫策と対戦するも破れた。

なお太史慈が命により偵察に出ていたとき、偶然にも少数の部下しか連れていない孫策に出くわしたため、一騎打ちを仕掛けたところ、孫策はこれに応じ、打合ったが決着が付かず、孫策は太史慈の馬を刺して手戟を奪い、太史慈も孫策の兜を奪ったところで引き分けたという。 大将であり君主である孫策が一騎打ちに応じることは相当な蛮行であり、血気盛んで若い孫策ならではといったところだが、三国志を題材にした物語等では、このとき二人に何か通じ合うものがあったとして感動的に描写するものが多い。

こうして孫策に丹陽郡を占領され、劉繇は逃亡したが、太史慈は丹陽太守を自称してその後も孫策に対抗した。

その後郡、会稽郡をも攻略しほぼ揚州全土を手中にした孫策に対し、太史慈は決戦を挑んだが、もはやかなわず敗れた。

孫策に仕える

太史慈は捕らえられたが、孫策は自ら太史慈の縄をとき、将軍に任命して兵を与えた。 太史慈もこれに応え、残党兵をかき集めてくると言ってその場を去ると、孫策の部下の多くは彼が裏切ると言ったが、約束どおり残党兵をかき集めて戻ってきた。

孫策のもとでは黄祖討伐などでも大いに功績を挙げ、跡を継いだ孫権からも重用された。

早めの退場

赤壁の戦い前の206年、41歳で死去。

三国志演義では

赤壁の戦い

三国志演義では赤壁の戦いにおいても大いに活躍。

合肥の戦い

209年に、張遼の守る合肥城を攻める戦いで、夜襲を仕掛けたが失敗し、矢を受けその傷がもとで死去。

血縁

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