劉邦(りゅうほう/liú bāng )
字は季
漢王朝を建国した太祖高皇帝 三国志に登場する皇族をはじめとした劉氏には彼の末裔も多い
概要
百姓から皇帝へ
徐州沛県で家業の農業を嫌い酒色に耽って生活をしていた。あるとき泗水の亭長となった劉邦は人夫の輸送の任に就いたが、逃亡者などが相次いだため自らも逃亡した。
やがて
陳勝・呉広の乱が起こると沛県も反秦の道を選び、県の役人であった
蕭何と
曹参の推挙により総大将として招かれることになった。ところがいざ沛県に戻ってみると県令は心変わりをしてしまったため、県令を殺して沛を乗っ取る形で掌握した。これが劉邦軍の始まりである。
その後は一大勢力となっていた楚軍に合流して転戦し、ついには秦の首都咸陽に入り秦を滅ぼした。
ところが劉邦は楚の総大将であった
項羽陣営の警戒に対し一番手柄を譲る形とし、
項羽は劉邦を警戒する范増の進言により
漢中の王に封じた。
漢中に入った劉邦は桟道を焼き払い東方と隔絶した環境を作った中で、蕭何を宰相とし
韓信を大将軍として迎え
国を作り項羽打倒の兵を挙げる。ときには大敗をしながらも遂には
垓下にて項羽を討ち勝利を収める。
劉邦はこうして天下を手中に収め、紀元前202年、
皇帝として漢帝国を建国した。
暖まらない玉座
劉邦が皇帝になった後も決して太平の世の中ではなかった。
劉邦自身が王侯に封じた功臣に対し猜疑心を抱いたのも原因にあるが、各地で反乱が相次ぎその度に劉邦は討伐軍を起こし戦場を駆け回った。
そんな中の一つの黥布の乱の討伐に向かった際に劉邦は負傷し、その傷が元で病にかかり紀元前195年、没する。
末裔たち
はっきり言ってたくさん。三国志に登場するだけでも
劉備、
劉表、
劉焉、
劉虞、
劉繇、
劉岱、
劉曄…などなど、数えたらきりがない(自称含む)