韓遂(
かんすい、
生年不詳~
215年)、字は文約。涼州軍閥の中の大勢力。もともとは「
約」という名だった。
概要
反乱人生の始まり
184年、
涼州の
宋建・
王国が
羌の
北宮玉と結んで反乱を起こすと、従事だった
韓遂・
辺章を人質にとって太守
陳懿らの陣営に行き彼らを殺害した。しかし韓遂、辺章は釈放され、
軍師に擁立されて軍政を委ねられた。反乱軍の一員となり懸賞首となったので、名を「約」から「遂」と変えた。
185年、韓遂らは鎮圧に来た
皇甫嵩と戦った。皇甫嵩は成果を挙げられず罷免された。次に
張温が
董卓、
孫堅らを従えて討伐に来た。
186年、韓遂らは彼らと戦う中、北宮玉と辺章を殺して王国を擁立した。
187年、司馬であった
馬騰も叛逆に加わり、韓遂・王国・馬騰は義兄弟の契りを交わしたという。
188年、皇甫嵩・董卓軍に
陳倉城で戦い敗北したとき、韓遂は王国を追放した。その後の権力争いで反乱は縮小。
馬騰と涼州をあらそう
190年頃になると、董卓が
献帝を傀儡として実権を握った。董卓が
長安に遷都するとき、「韓遂たちからも遷都の要請が来ている。遷都しないと彼らは攻めてくるぞ」と言ったという。
192年、その董卓が暗殺され
李傕・
郭汜が長安の実権を握った。韓遂・馬騰は軍勢を率いて長安に参詣し、韓遂は鎮西将軍に任じられ、馬騰は征西将軍に任じられた。事実上、韓遂・馬騰の降伏による反乱終結となる。
194年、馬騰は私欲のため李傕に接近したが、何も得られなかったため腹を立て李傕を攻撃した。何日経っても勝負は付かず、韓遂はそれを聞いて両者を和解させようとしたが、けっきょく馬騰に合流し李傕を攻撃した。
戦況は膠着していたが、196年、
樊稠に敗れて韓遂・馬騰は逃走。追撃してくる樊稠に対して、韓遂は「これから天下がどうなるかわからないし、俺たちは同郷で似たような立場なのだから、むきになって戦うことはないではないか。少し話でもしよう」と申し入れ、しばらく二人で談笑したと言う。
韓遂・馬騰は涼州に帰還すると、はじめは義兄弟の契りを交わし仲良くしていたが、しばらくすると一転し、互いに兵を率いて侵入しあう仇敵となった。何度も戦い、韓遂は馬騰の妻子を殺し、和解することは絶対困難となった。韓遂と馬騰が攻撃しあっていたときのこと、壮健で知られていた馬騰の子・
馬超が韓遂の将・
閻行に矛で突かれたが、矛が折れたためにうなじを打たれただけで助かったと言う。
197年、
袁紹と中原の覇権を争い始めた
曹操が、袁紹との外交合戦において韓遂・馬騰の和解を試みた。
鍾繇を派遣して利害を説かせ、和解を成功させた。韓遂・馬騰は二人して涼州の統治を許されたが、馬騰がこれを行ったところをみると、韓遂が馬騰を立てて自らは後見となったようである。
馬超の乱
212年、馬超が曹操に反乱を起こすと、
侯選・
程銀・
李堪・
張横・
梁興・
成宜・
馬玩・
楊秋、そして韓遂がこれに従い、十もの部曲となった。馬騰は曹操の命令で長安に移住させられていたが、馬超は韓遂を都督に立てようとし、韓遂に「馬超は父を棄てて将軍を父と致しまする。将軍も子を棄てて馬超を子としてくだされ」と言った。韓遂は、馬超の呼びかけに皆が結集したのを見て、「天の定めのようじゃ」と言って自らも加わった。
韓遂の献策むなしく、馬超は幾度も攻めたが曹操の軍に歯が立たず、そのため和睦を欲し、曹操に申し入れた。そこで曹操軍の軍師
賈詡は、偽って講和に応じて馬超を討つよう進言した。曹操はこれを採用し、馬超に講和に応じる旨を伝えたところ、韓遂が曹操との会見を要求した。曹操はこれに応じ、韓遂と曹操は馬を交わして語り合い、軍事には言及せずに昔話で手を打って談笑した。別の日曹操から、ところどころ墨で文字を塗りつぶし、韓遂が改竄したように見せかけておいた手紙が送られてきた。この一件で馬超らは韓遂を強く疑ったと言う。
馬超と曹操は日を約して決戦し、韓遂・馬超らは大敗して涼州へと敗走した。(
潼関の戦い)
最後まで反乱
韓遂の一党は皆逃げ散り、残った家臣は
成公英だけだった。韓遂は
蜀へ逃げようと言ったが、成公英は再起をかけようと反対した。韓遂はこれに従い、羌族のもとに落ち延びていった。韓遂は手柄を欲するものたちに首を狙われることになった。
それから羌族の軍を率いて
夏侯淵の追撃から逃げ続け、夏侯淵が
漢中攻めのために引き上げたので、再び攻勢に転じようとしたところ、病没した。旗本に暗殺されたとも言われる。
三国志演義では
曹操に降伏
賈詡による手紙を用いた
離間の計により、馬超と仲たがいして殺害されかけるも、なんとか叛乱軍を抜けて曹操に帰順した。