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陳宮(ちんきゅう)

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陳宮(ちんきゅう/chén gōng、154年?~198年)公台。はじめ曹操と行動を共にしたが、後に曹操を見限り呂布へと仕えた。

概要

曹操に仕える

兗州東郡東武城の人。陳宮は早い時期から曹操に仕えていた。曹操へ兗州を制圧する事を進言し自身は州内を説得して回り兗州に曹操の本拠を築いた。

曹操を諫止

曹操の父曹嵩徐州刺史陶謙の兵に殺害されるという出来事が起こった。曹操は激怒し徐州へ進攻し陶謙を討とうとした。陳宮は陶謙と親交があったためこれを諫止したが聞き入れられず曹操は徐州の領民を無差別に虐殺しながら進攻を開始した。

曹操への叛乱

曹操が徐州進攻のため本拠を離れた後、陳宮は陳留太守張邈のもとへ向った。そして張邈とその弟張超ならびに王楷許汜らと謀り叛乱を起こし、その頃流浪していた呂布を迎え入れ瞬く間に兗州を制圧した。

兗州攻防戦

陳宮らの叛乱を知った曹操は徐州制圧を諦め直ちに兗州へ引き返してきた。呂布は薛蘭李封らを守備に残し自ら軍を率い曹操軍と戦った。この時陳宮は泰山に兵を伏せ曹操を攻撃する事を献策したが聞き入れられなかった。その後、陳宮は高順魏続侯成らを使い守備を強化する事を進言した。呂布はこれを聞き入れ曹操の進攻を防いだ。呂布・曹操の交戦は100日余り続いたが蝗が大量発生し両軍共に食料不足に陥り撤退した。

曹操は再び兗州奪回のために来襲する。陳宮は呂布と共に迎撃するが、曹操の用兵の前に敗れ陶謙より徐州を譲り受けていた劉備のもとへ身を寄せた。

叛乱の嫌疑

劉備のもとへ入った呂布・陳宮だったが叛乱を起こし徐州を乗っ取った。その後、郝萌が呂布に対して叛乱を起こし、陳宮にも共謀の嫌疑がかけられたが最終的には不問とされた。郝萌は高順によって討たれ叛乱は鎮圧された。

呂布に殉じる

198年、徐州の陳珪陳登父子により曹操・劉備連合軍が呂布を討伐すべく徐州へと迫った。陳宮は自身と高順が城を守り呂布が兵を率いて敵の糧道を分断する作戦を献策したが、呂布の妻厳氏が「陳宮と高順は普段より仲が悪く、あなたが城にいなくなってしまえばきっと軍は分裂してしまうでしょう。」と訴えたため、この作戦は実行されず呂布は籠城した。やがて荀攸郭嘉による水計に遭い下邳城の士気は著しく低下し、呂布を裏切った侯成・宋憲・魏続らにより陳宮・呂布は捕えられた。

戦後、曹操は陳宮へもう一度自分へ仕えるよう説得したが、陳宮はそれを断り刑に処された。陳宮死後も曹操は陳宮の家族を引き取り世話した。

逸話

荀攸による評

荀攸は陳宮を「策謀に関しては私より長けているが、主君を選び取る能力にかけては陳宮は私に遥か及ばない。」と評した。

三国志演義では

曹操との出会い

陳宮が県令をしていた際に董卓暗殺未遂で逃亡していた曹操を逮捕した。しかし曹操の大志に感銘を受け陳宮は自らも官職を捨て去り曹操と共に逃亡した。逃亡途中、呂伯奢邸で宿を借りた際に誤解から曹操は呂伯奢一家を皆殺しにした。その夜陳宮は寝ている曹操を殺害しようかと思ったが、思いとどまりその後叛乱を起こすまで曹操旗下にいた。

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