鄧芝(
とうし、
生年不詳~
251年)、字は
伯苗。
蜀の家臣。
人物
生真面目。豪胆。兵士をちゃんといたわりつつ自分は金策が下手で家族に貧しい思いをさせていたと言う。感情を表に出し激しい物言いであまり人には好かれず、鄧芝自身も他人を尊敬することは少なかった。
姜維の才能だけは買っていた。
概要
仕官
鄧芝は、
劉障が治めていた蜀に仕官すると、その家臣・
龐義が良い人材を好んで従事させると聞き、身を寄せた。そのころ、同僚の蜀の家臣・
張裕の人相見がよく当たると聞いたので見てもらうと、「70歳を超えてから大将軍になる」と言われたという。
劉備が蜀を平定すると、そのまま劉備に仕えた。あるとき劉備が鄧芝の赴任地に視察に来て、このとき劉備と語らって気に入られたため、出世街道に乗った。
抜擢
223年に劉備が死去し
劉禅が蜀を継いだとき、蜀は
魏と敵対関係である上、
夷稜の戦いにより
呉とも険悪な関係が続いていた。この状態を危険視した鄧芝が、諸葛亮に「呉へ友好の使者を送るべきではありませんか?」と進言すると、諸葛亮は「私もまったく同じ考えだ。しかし使者が務まる人物が見つからずにいたのだ。しかしようやく見つかった」と言った。鄧芝が「その人物って?」と尋ねると、諸葛亮は「君だよ」と答えた。
使者の試練
諸葛亮に使者として抜擢された鄧芝が呉に赴いたが、
孫権は警戒して会おうともしなかった。そこで鄧芝は書面にて「私は蜀の利益だけを考えてきたのではありません。むしろ呉の利益を説きに来ました」と孫権に伝えた。そこでやっと引見されると、孫権から「もとより蜀との友好は望んでいたが、今の蜀は国土が小さい上に幼帝が継ぎ、
魏と比べて弱すぎる」と言われたので、鄧芝は「呉・蜀で四つも州を支配しています。孫権大王という一世の英雄と、帝は幼くても補佐する諸葛亮は一代の傑物。呉の
三江の守りと蜀の険しく連なる山々の守り。これらを合わせて協力すれば魏など恐るるに足りません。大王が魏と協力した場合はどうでしょう。魏は参内せよと申し、太子を人質にせよと申すでしょう。わが蜀も呉に兵を起こすでしょう。それでも江南を大王のものにしておけますか」と返した。孫権はしばらく考えて納得したという。
魏を倒した後は・・・
鄧芝の活躍で孫権は魏と断交し、呉のほうからも友好の使者が送られた(このとき使者となったのが
張温である)。
鄧芝もその後再び呉へ使者として赴いた。このとき、孫権から「魏を倒し、天下太平になった国を二人の君主で分けて治めるのも面白いじゃないか」と言われたが、鄧芝は「天に二つの太陽なく地に二人の王なしと申します。魏を滅ぼしたのちは、双方の君主が徳を競い、その臣下が忠節を尽くし、将軍が陣太鼓を下げて戦い、覇を競うでしょう」と返した。孫権もこの答えに満足し、諸葛亮に「両国の円満は鄧芝のおかげである」と手紙を書いている。
将軍職
諸葛亮による北伐が始まると、鄧芝も将軍として起用された。主に後方に駐屯して守備の任に就いた。
趙雲の副将となって戦ったが
曹真の大軍に敗れたことがある。
将軍職は二十年以上続き、
江州の都督にまでなった。
宗預伝に、鄧芝が宗預に「60歳になったら軍事に関与すべきでないと“礼記”にあるが、君はその歳で初めて兵を預かる身となったのはどうしたことか」と言ったので宗預が「あなたも70歳になるのに兵を返しませんね」と言い返したとする会話が記載されている。したがって鄧芝は70歳の時点で大将軍だったことになる。張裕の人相見ははずれではなかった。
鄧芝が乱民の叛乱を鎮圧した際、黒い猿がいたので弩で射殺すと、その子猿が出てきて黒い猿の傷口を葉っぱで巻いた。これを見た鄧芝は「嗚呼、物の本性に背いてしまった。自分はたぶんもうすぐ死ぬ」と言って、その年の内に死んだ。
三国志演義では
五路目はお前だ
三国志演義では、司馬懿が
五路の計をもって蜀に侵攻してきたとき、鄧芝は
劉禅の世話役だったが、諸葛亮が劉禅と談笑しているのを見て、諸葛亮の考えていた対応策を四路まで言い当て、「自分には最後の孫権に対する策が思い浮かびません。しかし
流石は丞相、その策もあるんですね」と言うと、諸葛亮に「私もそれを悩んでいたが、その策がやっと見つかった」と言われ、呉への使者に抜擢された。
熱湯コマーシャル
鄧芝が呉に到着すると、孫権は槍兵を立ち並べ、巨大な釜に油を入れて煮えたぎらせ、鄧芝を脅した。すると鄧芝はいきなり走り出して「死んで私が呉を誑かすつもりでやってきたのではないことを証明する!」と言ってその釜に飛び込もうとした。あわてて孫権が止めると、鄧芝は「呉には賢人が星の数ほどいると聞いていましたが、一人の使者を恐れてこのように脅しにかかるとは・・・」と言った。これを聞いた孫権は鄧芝を認め、話を聞いたとしている。