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郭淮(かくわい)

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郭淮かくわい/guō huái、187年?255年伯済に仕えた武将。の北伐を長年に渡り防いだ。

概要

夏侯淵亡き後も

并州太原郡陽曲県の人。若い頃に孝廉で推挙され平原に出仕し、やがて曹丕によって取り立てられる。漢中への出兵の際には曹操に従軍した。張魯を降し曹操が漢中を制圧した後も郭淮は夏侯淵と共に漢中に駐屯した。劉備が来襲した際に郭淮は病に伏してため、戦場には出れなかった。

定軍山にて夏侯淵黄忠に討たれ、司令官を失った魏軍は混乱をきたす。郭淮は張郃に司令官を代行するよう依頼し軍をよく統べ劉備をよく防いだ。救援に駆け付けた曹操が到着すると郭淮の統率力に感心し、張郃をそのまま漢中司令官へ郭淮を司馬に任じた。

雍州刺史に任じられる

220年、曹丕が献帝より帝位を禅譲され皇帝に即位した。郭淮は祝いの為に魏の首都許昌へ赴く途中、病を患ってしまい到着が遅れてしまう。やがて病が治癒し郭淮が許昌に到着した時は既に祝宴が行われていた。曹丕は郭淮を咎めたが、郭淮は曹丕の徳をに並ぶものと褒め称え罰を免れた。

曹丕は郭淮の言に喜び仮にではあるが雍州刺史へと任じ、後に正式に雍州刺史へと任じられた。

羌族をよく手懐ける

幾度となく反乱を起こす族に対し郭淮は鎮圧に赴いた。羌族に接する際、郭淮は親族・子供の数や年齢等を全て記憶し恩愛をもって接した為、羌族は郭淮に心服した。

対諸葛亮戦

郭淮は司馬懿曹真のもとで諸葛亮北伐の防備にあたった。228年街亭の戦いにおいては張郃と共に蜀軍を攻撃し、馬謖の将・高詳を討ち蜀軍の侵攻に呼応した羌族の唐蹏を撃破する。

230年、またもや諸葛亮が進攻してきた。郭淮は陽谿にて魏延と対峙するが敗れた。しかしその後は諸葛亮の侵攻よく防ぎ、魏軍が兵糧不足に陥った際には羌族に兵糧を供出させ、諸葛亮の陽動作戦を看破する等多大な功績を挙げた。

迅速な判断

諸葛亮が死去した後は姜維による北伐が繰り返された。240年、姜維が侵攻してくると郭淮は姜維を撃破し姜維側についた羌族の迷当大王を降伏させた。

その後族を関中へ強制移住させた。244年、郭淮は夏侯玄に従い蜀討伐へ赴く。郭淮は先鋒として蜀軍にあたるが、蜀軍は強く魏軍の形勢は不利となる。郭淮はすぐさま撤退を決断し大被害を出す前に撤退した。

蜀軍を大いに撃破

247年、羌族の大規模な反乱が起こりそれに呼応してまたもや姜維が来襲した。郭淮は羌族の餓何焼戈治無載を討ち、次いで姜維も撃破した。郭淮は敗走する姜維らを自身は追撃せず夏侯覇に追撃させた。郭淮自身は陰平廖化へ矛先を向け蜀軍を大いに撃破した。

妻の助命を嘆願

251年王凌の皇帝・曹芳の廃位する計画が司馬懿に漏れ王凌の一族は皆処刑される事となった。郭淮の妻は王凌の妹であり処刑は免れなかった。郭淮の部下達が助命を嘆願したが、郭淮は聞き入れなかった。更に郭淮の子郭縕らが郭淮の前で地面に頭を打ち据え血を流しながら助命を懇願した為、郭淮は妻を保護した。郭淮は司馬懿「妻を失えば、子も失い、子が失われれば私も亡き者となるでしょう。妻を取り返した事で私が罪に問われるのであれば潔く罪に服します。」と伝えた。司馬懿は郭淮らを赦免した。

その後も蜀からの防衛の為、西方に駐屯し続け、陳泰と共に句安を帰順させる等の功績を挙げた。255年逝去した。

三国志演義では

姜維に討たれる

演義で郭淮は姜維に討たれている。郭淮が放った矢を姜維に受け止められその矢で顔を突かれ絶命した。

血縁

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