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郭嘉(かくか/guō jiā、170年207年)奉孝曹操に仕え、軍師として活躍したが、若くして亡くなった。

概要

曹操と出会うまで

予州潁川陽翟の人。郭嘉は若い頃より大望を抱き、才能有る人物とは交際していたが、俗世間の付合いに関わる事を避けていた。27歳の時袁紹と拝謁するが、辛評郭図らに「袁紹は優柔不断でとても覇業を完遂できる器では無い。」と言残し去って行った。当時、腹心であった戯志才が死去した曹操は、荀彧へ戯志才に代わる者はいないかと尋ねた。荀彧は郭嘉を推挙し、曹操と郭嘉引き合わせた。二人は覇業について述べ合いお互いにその才能を認め合った。そして曹操の軍師として仕える事となった。

軍師として

郭嘉は袁紹が北上して公孫瓚を攻撃している間に呂布を討伐すべきであると曹操に進言した。曹操はこれを聞き入れ呂布討伐の軍を挙げる。呂布を攻撃し下邳城まで追い詰めた。しかし自軍が疲弊した為曹操は一時引き返そうとしたが、郭嘉はこれに断固反対し徹底的に呂布を攻撃すべきだと主張した。曹操はその言に従いとうとう呂布を討った。

官渡の戦いにも従軍し、袁紹を討った。しかしその息子袁譚袁尚はまだ健在であった。曹操はこれを討つべく兵を挙げようとしたが郭嘉は「追い詰めては団結を強めます。南下すると見せかけ分裂を誘うのが良計でしょう。」と進言した。郭嘉の言の通り曹操が南下しようとすると袁譚・袁尚は争いを始めた。曹操は引き返し冀州を攻略した。

曹操は更に北上し、袁尚烏丸を討伐しようとしたが、自軍内から劉表が背後を突きかねないという声が上がった。郭嘉は劉表などは放っておき、蹋頓の討伐を優先すべきだとし、昼夜を問わず進軍し防備を整える前に袁尚・蹋頓を討つべきだと進言した。曹操は軍を引き連れ一直線に蹋頓のもとへと進軍し、これを討った。

早過ぎた死

蹋頓を討伐し帰還した頃、郭嘉の病は重くなりそのまま死去した。曹操は大変悲しみ荀攸らに「諸君らに比べ郭嘉はとび抜けて若かった。覇業を完遂させたらば、後事を郭嘉に託すつもりだった。」と嘆いた。享年38歳。

逸話

奉孝ありせば

赤壁の戦いで敗北した曹操は郭嘉さえいればこの大敗は免れたであろうと言った。

陳羣との確執

郭嘉の私生活は品行方正とは言い難く軍議の席で陳羣にそれを非難されると、公の席で私生活を議論する事の方が非難される行いであるとし取り合わなかった。

血縁

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