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趙昂(ちょうこう)

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趙昂ちょうこう生年不詳没年不詳)、字は偉章涼州韋康の家臣。韋康が馬超に殺されたため、その後は馬超と戦った。妻は王異

概要

韋康に仕える

刺史や県令を歴任して名を上げて、楊阜と共に韋康に召しだされ、参軍となった。

馬超襲来

叛乱を起こして曹操に撃退された馬超は、再起を図りつつ涼州を逃げ回った。そこで涼州刺史の韋康のいた冀城を包囲した。韋康と趙昂・楊阜らは抵抗し、よく持ちこたえたが、兵糧が尽きたので韋康は馬超と講和してしまった。趙昂は馬超を危険視して降伏を強く諌めたという。そして結局、すぐに馬超は韋康を殺害して城を奪った。

城を支配下に置いた馬超は、趙昂や楊阜らを召抱えようとしたが、龐徳はこれを危険視して反対したという。

王異の助力

龐徳の反対も聞かず、結局馬超は趙昂・楊阜を配下とした。とは言うものの、心底は信用はできなかった。やはり趙昂・楊阜も馬超に服従する気は無かった。

趙昂は馬超の警戒心を解くため、自分の妻の王異を、馬超の妻の楊氏に近づけ交わらせた。聡明な王異は楊氏と語り合い、容易に楊氏の信用を得た。そのため、馬超も趙昂を信用するようになった。

こうして馬超が油断したところ、楊阜が姜叙の援軍を得て蜂起、馬超は楊阜に冀城から追い出され、妻子を殺された。その後、馬超は張魯から兵を借りて再び攻め戻ってきたが、趙昂と王異が祁山で篭城してこれを防いだ。1ヶ月ほどでの援軍が到着し、馬超は逃げ去った。

妻・王異は、これらだけでなく、冀が襲われてから祁山守備まですべての計略について趙昂に助言していたという。

息子

趙昂は馬超の配下となったときから、息子の趙月を人質にとられていたが、楊阜と共に蜂起するとき、王異に気使って息子の身柄について相談した。すると王異は「忠義を立て、君父の恥辱をすすぐのに比べれば、自分の首を失っても大した事ではありません。まして息子がなんです。」と言ったので、趙昂はこれを聞いて「すばらしい」と言い、計略を実行した。

結局、趙月は馬超が祁山から逃げるときに殺された。

三国志演義では

微妙に違う

趙昂は、姜叙の部下となっている。息子・趙月は人質ではなく馬超の副官にされた。そして姜叙の母らが殺されるのと同時に趙月ら一族郎党を殺されている。

血縁

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