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袁紹(えんしょう/yuán shào 、生年不詳202年)本初。「四世三公」を輩出した名門の出身で、北方に巨大な勢力を有したが曹操に敗れた。

概要

宦官誅殺

予州汝南郡汝陽県の人。洛陽において何進に引き立てられ司隷校尉を務めていた。霊帝崩御後、何進と宦官十常侍による後継者争いが起こり、袁紹は何進に宦官を誅殺すべしと進言した。何進は各地の群雄に洛陽に集結し、宦官掃討に参加するよう呼びかけた。しかし、袁紹ら群雄が洛陽に集結する前に何進は宦官により暗殺されてしまう。袁紹は何進の弔い合戦と称して袁術らと共に宮中に攻入り宦官を誅殺した。殺害された人数は2,000人に及んだ。

その時、廃帝弁献帝(当時陳留王)は洛陽を脱出しており、何進の呼びかけに応じ、洛陽へ向かっていた董卓によって保護された。董卓は廃帝弁と共に洛陽へ戻り朝廷の実権を掌握し、権勢を奮う。董卓は陳留王を帝に擁立しようとするが、袁紹はこれに断固反対する。しかし董卓の軍事力は強大であった為、身の危険を感じた袁紹は冀州へと逃亡した。しかし董卓も袁紹の力を恐れており、結局袁紹を渤海太守に任じた。

反董卓の盟主

董卓のあまりの暴虐ぶりに、橋瑁の呼びかけにより反董卓連合軍が結成される。曹操の推挙もあり袁紹は連合軍の盟主となった。しかし連合軍が洛陽まで迫ると董卓は長安に強制的に遷都した。これを契機に各人は自分の領地へ帰還しだした。袁紹は韓馥らと共に董卓の擁立した献帝に対して幽州劉虞を擁立しようとするが劉虞自身に拒まれ計画は頓挫した。

北方の雄

連合軍解散後、袁紹は戻るべき領地が無かった為逢紀の策により韓馥の治めていた冀州を乗っ取り本拠とした。その後、袁紹と公孫瓚の対立が深まり公孫瓚は袁術と盟を結ぶべく公孫越を派遣した。直後、袁紹と袁術の間に戦闘が勃発しこの戦いの中で公孫越は流れ矢に当たり戦死した。公孫越が討たれた事により袁紹と公孫瓚の関係は抜き差しならないものとなった。袁紹は公孫瓚の懐柔を試みたが失敗し、袁紹軍・公孫瓉軍は界橋にて対峙した。麹義劉和らの活躍により公孫瓚を打ち破り易京を包囲した。また、公孫瓚と協力していた黒山賊も討ち、199年ついに公孫瓚を滅ぼした。

河北四州を支配

袁紹は河北四州を冀州を自身で、青州を長男袁譚、幽州を次男袁煕并州を甥である高幹に治めさせ、強大な勢力を形成した。またこの時期に曹操に献帝を引き渡すように要求したが拒絶され、その変わりに大将軍に任じられた。

曹操との決戦

徐州劉備が曹操に攻撃され、袁紹のもとに劉備より救援要請が来た。田豊らは曹操が不在の間に許昌を攻撃すべきだと進言したが、袁紹は息子の病を理由に出兵しなかった。その後、袁紹は曹操を攻撃すべく出兵しようとするが田豊や沮授らに反対にあう。しかし袁紹は出兵し、官渡において曹操と対峙する。戦が始まり半年が経った頃許攸が曹操のもとへと寝返り、兵糧庫のあった烏巣を襲撃され、焼き払われる。兵糧を失い旗色の悪くなった袁紹軍は倉亭の戦いの戦いにも程昱の「十面埋伏の計」に敗れ。冀州へと退却した。

冀州へと戻った袁紹は病に倒れ、202年死去した。

逸話

花嫁泥棒

若い頃曹操と袁紹は不良仲間で、花嫁をさらおうと画策し屋敷に忍び込んだ。ところが、袁紹は茨に嵌って身動きが取れなくなった。曹操は突然「花嫁泥棒はここだ!」と大声で叫び、慌てた袁紹は痛みも忘れ逃げ延びたという。

袁術との関係

袁紹の父は袁成、袁術の父は袁逢である。袁成と袁逢は兄弟なので、その子らである袁紹と袁術は従兄弟である。

しかしもともとは袁紹も袁術と共に袁逢の子で、袁術とは異母兄弟の関係にあり、ただ早世した袁成の跡取り養子となったため上記のような家系となった、とする記述もある。

袁術は袁紹のことを「妾の子」と言って中傷していたとも。

血縁

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