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荀彧(じゅんいく) - あいや~~っ!!

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荀彧(じゅんいく/xún yù、163年212年)文若曹操に仕えた軍師

概要

王佐の才

豫州潁川郡穎陰の人。荀彧は荀子の子孫という名門の出身で一族も重役に就いていた。若い頃に何顒に「王佐の才を持つ」と評された。董卓廃帝弁を廃し献帝を擁立した頃孝廉に推挙され宮中に勤める。

その後、董卓の専横が激化し反董卓連合軍が結成された頃、中央の混乱を逃れる為、職を辞して帰郷し同郷の辛評郭図らと共に冀州であった韓馥のもとへ身を寄せる事にした。しかし荀彧らが辿りついた時、冀州は袁紹によって奪われたいた。袁紹は荀彧の弟荀諶が配下にいた事もあり荀彧らを歓迎した。

我が子房

袁紹のもとに入った荀彧ではあったが、袁紹という人物を見るに大業を成す人物ではないと判断し出奔する。そして曹操のもとへ身を寄せた。曹操は荀彧を歓迎し「君こそ我が子房だ。」と大変喜んだ。

呂布戦

曹操が兗州を得た後、194年曹操は徐州の陶謙を目指し進攻する。荀彧は程昱と共に兗州の防備にあたったが、張邈陳宮が流浪していた呂布と共に反乱を起こし兗州の大半を奪取する。呂布は荀彧のもとにも援軍と称して使者を送り城内へ侵入しようとしたが、荀彧は策を見破り守城に務めた。夏侯惇と連携し残った城を曹操が戻るまで守り通した。

曹操は帰還後、呂布に奪われた城ではなく徐州の奪取を思案していたが、荀彧は高祖(劉邦)・光武帝(劉秀)を例に挙げ本拠の兗州を奪回し基盤を築くべきだと諫めた。曹操はこれを聞き入れ兗州の奪回に乗り出し呂布を討ち、兗州を平定した。

献帝擁立

196年献帝長安李傕のもとを脱出し、荒廃していた洛陽に入った。荀彧はこの報せを聞き曹操に直ちに献帝を迎え入れるべきだと進言した。曹操はこれを聞き入れ直ちに献帝を保護し許昌に遷都した。この功績により曹操は大将軍に、荀彧は侍中尚書令に任じられた。

官渡の戦い

袁紹との決戦の直前、孔融は袁紹軍には顔良文醜ら良将が数多おり打ち勝つのは難しいと言い立てていた。荀彧はこれに反論し、顔良・文醜らは大した将ではなく袁紹のもとに身を置いていた経験から袁紹軍の弱点を事細かに挙げ恐れるに足らずと言った。曹操は袁紹との決戦を決意し、軍を挙げた。荀彧は後方において留守の防備にあたっていたが、曹操を盛んに励まし徹底的に袁紹を討つべしだと進言し続けた。

天下簒奪

曹操が公就任に猛反対し、荀彧は曹操の帝位簒奪を憂慮する。その後曹操孫権征伐に従軍するが、寿春において憂悶の内に死去した。

逸話

宦官の娘を妻に

荀彧がまだ4歳の頃、漢朝で権勢を振るっていた宦官唐衝の圧力により唐衝の娘を娶る。名門荀氏の荀彧が宦官と縁戚関係になる事で批判を受けたが、後年は荀彧を気遣いこの事を話しに出すものはいなかった。

三国志演義では

空箱

曹操の魏公就任後の孫権征伐に従軍している最中、荀彧は曹操より食物の箱を贈られた。荀彧が蓋を空けると何も入っておらず、暗に自決せよという事を意味していると解釈した荀彧はそのまま毒をあおって自決した。

血縁

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