甘寧(
かんねい、
生年不詳~
222年)、
字は
興覇。
劉表・
黄祖へ仕えていたが重用されなかった為、その後
孫権へと主を変える。
概要
鈴の甘寧
益州巴郡臨江県の人。甘寧ははじめ役人勤めをしていたが、長く続かず官職を棄て帰郷した。不良少年らを集め甘寧はその親分として彼等を引連れ闊歩した。甘寧は弓を小脇に、背中に羽根飾りを付け、腰に鈴を下げていたので、人々は鈴の音が聞こえると甘寧らがのし歩いているのがわかった。
遊侠の徒
甘寧は強盗や逃亡者を匿う等し、郡中にその名を知られていく。周りの者達にも豪華な刺繍が入った衣類を身に着けさせ、船上で停泊する時は絹綿の綱で船を繋ぎ止め出航する時はその綱を切り捨てる等、富貴を見せ付けるような行いをしていた。地方長官らにもてなしを強要し、そのもてなしが甘寧の満足いかないものであった場合は押し入って財産を強奪する等やりたい放題の生活であった。
また、領内で犯罪が発生すると甘寧らは長吏の怠慢・過失を追求するといった事もしていた。
更生し劉表に身を寄せたる
甘寧はこのような生活を20年程続けていたが、足を洗い書物に没頭した。やがて800人程の
食客を引連れ、
荊州刺史であった
劉表のもとに身を寄せた。劉表は
儒者であり知識人を庇護する方針を取っていた為、半ば賊上がりである甘寧は重用されなかった。甘寧も劉表を大事を成す人物では無いと思い、
呉へ移ろうとした。しかし
黄祖が
夏口に駐屯していた為通過する事が出来ずそこの留まる事になった。
孫権のもとへ
黄祖のもとに孫権が父・
孫堅の仇を討つべく軍を率いて来襲する。黄祖は防備にあたったが敗れ逃亡した。甘寧は後詰を務め孫権軍の追撃を迎撃し、見事な弓術で孫権軍を防ぎ
凌操を射殺する
手柄を挙げた。しかし戦後も甘寧は重用されなかった。黄祖配下の
蘇飛が幾度か甘寧を重用するよう進言したが聞き入れられなかった。黄祖は甘寧の食客を甘寧のもとより去るように仕向けていった。甘寧は黄祖の下を出奔し呉に行きたいと思ったが、手勢が減ってしまったので亡命する事も無理になり日々悶々としていた。
蘇飛が甘寧を重用するように度重なる進言を黄祖にし、ようやく甘寧は県長に任命された。甘寧は食客を呼び戻し義勇兵を手勢とし、ようやく呉へ亡命する事が出来た。甘寧が黄祖のもとに入って実に3
年の月日が経っていた。孫権は
周瑜・
呂蒙らの推挙もあり甘寧を喜んで迎え入れ厚遇した。
天下二分の計
孫権に仕える事になった甘寧は早速孫権へ
曹操より先に荊州を奪取し、しかる後
蜀を領土にし曹操と対抗するよう進言した。
張昭が領内が安定していない事を理由に反論したが、孫権は聞き入れず甘寧の言に従い、再度黄祖討伐の軍を挙げ黄祖を討った。
この時、甘寧の恩人である蘇飛も捕らえられたが、甘寧は孫権に必死の蘇飛の助命を歎願した。これにより孫権は蘇飛を赦免した。
南郡戦
赤壁の戦いでは周瑜に従軍し曹操を大いに撃破した。その後
南郡の
曹仁を目指し進攻する。ここで甘寧は周瑜に先に
夷陵を落とすべきだと進言した。周瑜はこの策を採用し甘寧は直ちに出陣し夷陵を落とし入城し防備にあたった。曹仁は五・六千ほどの軍勢を夷陵に派遣し包囲した。甘寧の兵は1000人足らずしかおらず、城外に高い櫓を建てられ城内に弓矢が雨のように射ち込まれて来た為城内は恐怖に慄いた。
甘寧はその中で冷静さを失わず、周瑜に救援要請を出し普段と変わらぬ態度で談笑していた。やがて周瑜の援軍が到着し曹仁軍を撃退した。
武を発揮
荊州の
関羽との緊張が高まり、甘寧は
魯粛に従い関羽と対峙する。関羽は精鋭を率い浅瀬を渡り直ちに攻入ると喧伝した。甘寧は魯粛に浅瀬の自分が防備にあたると進言し関羽に備えた。この為、結局関羽との戦闘は起こらなかった。皖城攻略にも従軍し、
朱光を捕縛した。
曹操に張遼、孫権に甘寧
曹操が
濡須に出兵した際、甘寧は前部督に任じられ先鋒として曹操軍にあたった。甘寧は100人程の兵を選り抜き決死隊とした。その者らに酒食を振る舞い、曹操軍へ夜襲をかけた。甘寧軍は数十の首級を挙げた。曹操軍は慌てて太鼓を打ち鳴らし松明を灯したが甘寧は既に帰陣していた。
これを聞いた孫権は「孟徳(曹操)には
張遼がいるが、我には甘寧がいる。」と言い非常に満足し、甘寧に恩賞を与えた。
合肥の戦い
215年、孫権は合肥へ進攻し甘寧も従軍した。疫病が流行してしまった為、孫権軍は撤退を余儀なくされる。撤退の途中、甘寧は呂蒙・
蒋欽・
凌統らと共に孫権を守っていた。張遼はそれを発見し急襲してきた。甘寧らは必死で孫権を警護した。戦の途中、軍鼓が止んでいたのに気付いた甘寧は「何故演奏しない!」と叱責した。この甲斐あり孫権は辛うじて張遼より逃げ延びた。
逸話
凌統との確執
凌統の父・凌操は凌統に射殺された為、甘寧は凌統より怨まれていた。甘寧は凌統を避けるようにし、孫権も凌統に報復してはならぬと命じた。呂蒙邸で宴が催され甘寧・凌統に二人も出席していた。凌統は
刀舞を始め、甘寧も
双戟を手に舞い始めた。場に緊張感が漂ったが、呂蒙が割って入り事無きを得た。
呂蒙の母
甘寧のもとにいた者が過失を犯し、呂蒙に匿われた。呂蒙はこの者を甘寧に引渡したら殺害してしまうだろうと心配し、匿い続けた。ある日、甘寧は呂蒙の母に贈り物をする為来訪した。そこで呂蒙は甘寧にこの者を殺さないと約束させ、引渡した。しかし甘寧は帰るとすぐさまこの者を木に縛りつけ射殺した。
約束を違えられた呂蒙は怒り、兵士を集め甘寧を攻撃しようとしたが呂蒙の母が駆け付け、私事で甘寧程の人物を殺していいものかと叱責した。呂蒙はこの出来事を水に流し、甘寧を呼びに行き母と共に酒宴を催し楽しんだ。
三国志演義では
錦帆賊
甘寧の若い頃、「
錦帆賊」と呼ばれる水賊を組織し、近隣を荒らし廻っていた。
沙摩柯に討たれる
演義では
夷陵の戦いの際、甘寧は病を患っていたが身を押して出陣する。戦の中で
沙摩柯の矢を受けて戦死した。
血縁