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王邑(おうゆう)

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王邑おうゆう生年不詳没年不詳)、字は文都。後漢朝および魏にかけて司州河東郡の太守。

概要

195年

献帝長安から脱出して洛陽へ向かう際、王邑は献帝が自領を通ると、着物などを献上した。

202年

領下の県の長官に賈逵がいた。河東郡に郭援が攻め込んできたとき、賈逵は捕らわれて捕虜となってしまった。郭援が河東郡の太守を自称したのに対し、賈逵は「王邑殿が太守になってもう長い。あなたがどこの馬の骨か知らぬ」と言って抵抗し続けた。

賈逵は釈放されると、王邑に「討伐に出るより、先に皮氏県を押さえたほうがよい」と進言した。河東郡が無事だったのはその進言のおかげという。

同年

王邑は中央に招聘された。しかし王邑は、まだ領下が安定していないことを危惧し、さらに王邑を慕う官吏民衆が河東郡太守留任を嘆願した。しかし後任の杜畿がすでに到着していたので鍾繇が許可しなかった。

このどたばたで王邑は太守印を持ったまま都に帰還した。鍾繇はこのことを「自分が厳罰を適用しなかったからだ」と恥じ、辞職しようとした。

213年

曹操が娘の曹憲曹節を献帝に輿入れしたとき、王邑はまで行って結納の儀式をし、二人を連れて来た。

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