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檀石槐(だんせきかい)

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檀石槐だんせきかい137年181年)。鮮卑の大人で、モンゴル一帯を統一するほどに鮮卑の勢力を伸ばした。

概要

父に追い出される

鮮卑の酋長の家に生まれたが、父が遠征中に生まれたため、母が不貞を疑われ、母子ともども実家に送られたという。

父に才を買われる

母の実家で育った檀石槐は勇敢さと統率力に長け、その評判が父の耳に届き、父は檀石槐を認知し、戻ることを許したと言う。

鮮卑をまとめ巨大化

鮮卑の部族間の抗争で檀石槐はその勇猛さと統率力を発揮し、鮮卑の各酋長達を恐れさせ、ついには競って各部族が忠節を誓い、檀石槐は大人に推挙され、鮮卑統一を果たした。さらに匈奴烏丸の一部の部族までも進んでその傘下に入ったため、モンゴル一帯の統一をも果たした。

官軍にも負けず

檀石槐の勢力を恐れた後漢朝は、張奐を討伐に送り込んだが、張渙は檀石槐の見事な采配に大敗、逃げ戻った。すると今度は檀石槐を王に封じるとの使者を派遣してきた。檀石槐は「俺は漢の奴隷になるつもりはない」と言って断り、あくまで鮮卑の上位に居ようとする後漢王朝に怒り、幽州や并州を略奪して回った。

檀石槐は死ぬまで後漢領土への略奪侵攻をやめなかったと言う。これに対して霊帝は何度も討伐軍を送ったが、檀石槐の連戦連勝に終わった。

倭国とのかかわり

官軍と戦っていたとき、食糧難に陥ったことがあったと言う。そのため檀石槐は魚の獲れる地域に移動したが、鮮卑に魚を獲る技術がまったくなかったため、食糧難は解決しなかった。そこで檀石槐は、魚を獲る技術に長けた倭国から人を捕らえて移住させ、魚を獲らせたと言う。

死後の鮮卑

檀石槐の死後は子の和連が継いだが、檀石槐が広大になった鮮卑の領土を分割して統治していたことと、その後継ぎ和連が淫乱で欲深く、不公平だったことにより、鮮卑は分裂してしまった。

血縁

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