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李典(りてん)

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李典(りてん/lǐ diǎn、生年不詳没年不詳)曼成曹操配下の古参の武将で合肥の守備等で活躍した。

概要

一族の軍を引継ぐ

兗州山陽国鉅野県の人。李典は武芸よりも学問を好み、の教養を重んじる謙虚な人柄であった。学者に師事し「春秋左氏伝」をはじめとした書物を読みふけっていた。190年、曹操が陳留にて挙兵した際、李典の従父李乾は一族や食客を連れて曹操のもとに馳せ参じた。李典も李乾に従い曹操旗下に入った。その後、李乾が戦死し李乾の息子李整も病死した為、李典は中郎将に任じられ李乾・李整の軍を引き継いだ。

官渡の戦い

官渡の戦いの戦いで李典は私財を投げ打ち曹操軍に貢献した。袁紹が討たれた後、黎陽袁譚袁尚兄弟と戦っていた際、李典は程昱と共に兵糧の輸送にあたっていた。輸送の為に水路を使っていたが、袁尚配下の高蕃によって水路を断たれてしまう。曹操より陸路をとれとの命が来たが、李典は程昱との協議の結果、曹操からの命令を無視し高蕃軍へ攻撃を仕掛ける事にした。李典は高蕃軍を見事討ち破り水路の確保に成功した。

夏侯惇を救う

劉表のもとで新野に駐屯していた劉備が北上し曹操領へ侵攻して来た。李典は夏侯惇于禁と共に防備にあたった。ある日、劉備は自陣を焼き払い撤退していた。追撃しようとする夏侯惇を李典は「理由も無く撤退したのは敵に策が有るからに他なりません。」と諌めたが、夏侯惇はこれを聞き入れず于禁と共に追撃を開始した。李典の危惧していた通り劉備は兵を伏せており襲撃してきた。夏侯惇軍の旗色は悪かったが、李典が救援に駆け付け何とか劉備軍を追い払った。

攻撃に参加した後、李典は楽進と共に高幹の反乱や袁譚の残党管承を討伐する功績を挙げ捕虜将軍に任じられた。

合肥を守る

李典は張遼・楽進と共にとの国境の合肥の防備にあたる。李典と張遼・楽進は普段は仲が悪かったが、孫権が大軍を率いて来襲した際には一致団結して出撃し孫権を大いに討ち破った。その後、36歳という若さで病死した。

逸話

魏郡へ一族を移住

ある日李典は曹操へ自分の一族郎党を郡へ移住させる事を願い出た。曹操は「光武帝の臣耿純の模倣か?」と問うたが、李典は「古人を模倣するつもりはありません。ただ曹操殿のご恩を鑑みれば一族を挙げて尽くすのが当然であると考えたからです。」と答えた。曹操は李典の申し出を賞賛し、破虜将軍に任じた。

三国志演義では

諫言を聞き入れられず

三国志演義で李典は諫めるものの聞き入れられず結局敗れるという場面が二回有る。曹仁と共に樊城の防備していた時に、劉備が来襲する。李典は援軍を要請するよう曹仁へ進言するが聞き入れられず徐庶に敗れる。その後、博望坡へ夏侯惇に于禁と共に従い進行する。諸葛亮の策により撤退した劉備軍を追撃しようとする夏侯惇を諌めるがまたもや聞き入れられず、諸葛亮の火計の前に敗れた。しかし李典の的確な進言を曹操は評価し敗戦の罪を問われる事は無かった。

曹操を諌める

劉琮を降し劉備を追撃していた曹操軍であったが長坂において張飛に撃退された。再度、長坂へ軍を進めると橋が焼き払われており曹操は「橋を焼き払ったのは策が無いに違いない。」とすぐさま追撃しようとするが、李典はこれを「諸葛亮の罠があるやもしれません。」とこれを諌めた。曹操は李典の意見を聞き入れ追撃を中止した。

太史慈を討つ

合肥の攻防戦の際、李典は太史慈を討ち取った。

血縁

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