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朱然(しゅぜん)

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朱然しゅぜん182年248年)字は義封。孫権の重臣。将。

人物

小柄な体格だった。 将兵に慕われる気さくな性格だったという。

概要

エリート

朱然は朱治の姉の子である。朱治の姉の嫁ぎ先は施家。よって旧姓は施。幼少期は学友として孫権と机を並べた。 孫策の家臣となり、才能を見出され、孫策がとりなして朱治の養子となる。 孫策が死んで孫権が後を継ぐと、朱然は若くして県令・太守と役職を与えられ、一軍の将となった。 出世が早かったのは名家に生まれたためもあるが、孫策・孫権とも彼の才能を高く評価していた。

出世の階段

219年の関羽討伐戦では、朱然は潘璋の副将として従軍し、この潘璋軍が関羽を生け捕ったため朱然も大功に預かる。 222年夷陵の戦いでも、陸遜の火攻めにより呉が攻勢に転じると、朱然は退路を断つ任務を授かり功績をあげた。

魏の三方面侵攻

夷陵の戦いで蜀軍に勝利した孫権だが、これで甚大な被害を受けた機を見て、曹丕が洞口・濡須・南郡の三方面から呉に侵攻してきた。 朱然はこのうち濡須の守備を託され、曹真夏侯尚張郃らと対決した。 朱然は援軍たたれ、包囲され孤立無援となり、流行病によって城内の兵は激減し、そのうえ部下の内応騒ぎまで起きる。 ここで朱然はよく兵を励まして敵の隙を窺い、敵陣2つを破ることに成功。 その後も半年のあいだ曹真軍と対峙し、とうとう魏軍は江陵城攻略を諦めて撤退した。 この死力を振り絞った戦いによって朱然はおおいに名を上げた。

歴代大都督に

呂蒙は重病で危篤となり死期が迫ったとき、「決断力、実行力ともに十二分」として朱然を後継に推薦したという。 しかしこの時は、孫権は闞沢の推薦した陸遜を任命した。 そして245年、陸遜が死去した後を受け、孫権からついに呉の軍権を任された。

三国志演義では

死因

朱然は248年まで生存し、最後は病死だが、三国志演義では222年の夷陵の戦いのとき、敗走する劉備を追撃する途中で趙雲に斬られた。

血縁

  • 養父
    • 朱治

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