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張魯(ちょうろ) - 米屋

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張魯ちょうろ生年不詳216年)。五斗米道という道教の教理を利用して漢中を支配した。後に曹操に降伏。

概要

五斗米道の教祖に

張陵という者が創始した道教である「五斗米道」を、子の張衡が継ぎ、さらに孫の張魯が継いで3代目となる。張魯の母は巫術使いであり、若々しく妖艶で、蜀の太守である劉焉のもとに出入りしていた。 そこで劉焉は張魯を督義司馬に抜擢して漢中攻めを命じた。

この時、同じく蜀で張脩を教祖とする鬼道の勢力が、共に漢中攻めを命じられていた。 張魯は張脩を殺してその軍勢を吸収し、漢中に五斗米道の勢力を築き、独立を果たした。 なお、蜀で太守が劉焉から劉障に代わると、張魯はこれに従わなくなり、巫術使いの母や弟ら一族は劉障に殺された。

漢中五斗米道

五斗米道の名は、呪術的な儀式によって信者の病気を治癒し、五斗(約10リットル)の米を寄進させたことに由来する。張魯は、租税およびこの寄進米も私欲のために浪費することはせず、各所に街道を敷くなど公共事業に力を注いだ。 このため民衆の支持を受けた五斗米道は繁栄し、漢中は一大勢力となった。

この他にも、流民に対し無償で食料を提供する食堂を設けたり、悪事を行ったものは罪人とせず3度まで許し、4度目になると罪人と評して道路工事等の軽い労働を課すなど、張魯は独特の支配方法で信者を増加させていった。 張魯は住民が地中から掘り当てた王印の献上をうけ、漢寧王を名乗るよう進言されたが、張魯の軍師である閻圃が「王を名乗れば災厄を受ける」と諫めたため、王号は名乗らなかった。

曹操への帰順

215年(建安20年)、曹操が大軍を率いて漢中に攻め込んで来た。 張魯は勝利の可能性が無いと考え降伏しようしたが、弟の張衛がそれに反対して出陣し、曹操軍に討ち取られた。 このため張魯軍は追い詰められ、張魯はいよいよ降伏しようとしたが、閻圃から「追い詰められて降伏しては軽く見られる」と進言され、いったん巴中に逃走した。 その際に張魯は、「国家のものだから」と財宝を焼き払わずに蔵に封をして手をつけずに置いたため、すべて曹操の手中におちてしまった。 しかし、このことに感心した曹操は張魯を丁重に迎え入れて降伏を受け入れた。

その後

張魯が曹操に帰順すると鎮南将軍に任じられ、親族や五斗米道の重臣だった者も官職を与えられた。 五斗米道による漢中統治は終了したが、五斗米道はその後も民間宗教として発展、現在も信仰がある。

三国志演義では

馬超を親族に迎えようとするが

曹操に敗れた馬超は、張魯を頼り、兵を借りてたびたび失地回復を試みたが、結局張魯の元を出奔し、劉備に帰順した。 この件について演義では、張魯は娘を馬超に嫁がせようとしたが、張魯の佞臣である楊松が馬超を批判して思いとどまらせたため、馬超が激怒して楊松の弟・楊柏を殺したとされている。

野心家

また、演義で張魯は、漢寧王の位を望み益州を奪い取ろうとする野心家として描かれており、馬超を用いて葭萌関を攻め、これに対し劉障に招かれた劉備が防戦した際、孔明が楊松を使者に立て、張魯に「馬超を引かせれば、張魯殿を漢寧王に取り立てるよう天子に上奏する運動を起こします」と申し入れた。 張魯は喜んで馬超に撤退を命じたが、もともとこれは孔明の策略であり、馬超は手柄を立てなければ帰れないとの思いがあったため、張魯の撤退命令を無視。 馬超出奔の一因となった。

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