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孫権(そんけん) - チューボーですよ!

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孫権(そんけん/sūn quán 、182年252年)仲謀孫策の後継者となりの初代皇帝となる。

概要

周泰に救われる

揚州呉郡富春県の人。兄である孫策の命を受け、孫権は宣城の防備にあたっていた。そこへ山賊が来襲する。孫権軍は応戦したが統率はとれて無い上、城壁の整備も怠っていた為、山賊に城内に攻め込まれ孫権は窮地に陥る。周泰が孫権のもとに駆け付け何とか救出し、孫権は九死に一生を得た。

孫策の後を継ぐ

孫策が死去し孫権はその後継者となり、周瑜張昭らの佐けを受けながら江東に勢力を築く。またこの時、曹操の上表により会稽太守・討虜将軍に任じられるが、孫権は会稽には赴かず、呉を本拠とした。この時期に諸葛瑾をはじめとした人材が孫呉陣営に加わった。

父・孫堅の仇を討つ

203年、孫権は父孫堅の仇である黄祖を討つべく荊州江夏へ出兵するが、黄祖のもとにいた甘寧凌操を射殺した隙を突かれ黄祖を討ちもらす。

208年、孫権は周瑜を都督に任じ再び黄祖を討つべく出兵する。甘寧が孫権のもとへ帰順した事もあり、黄祖を撃破した。逃亡する黄祖を追撃し、とうとう父の仇である黄祖を討ち取った。

赤壁の戦い

曹操が南下を開始し、荊州の劉琮は戦わずして降伏した為、曹操の矛先は孫権へと向けられた、孫権陣営は抗戦派と降伏派で割れ紛糾したが孫権は周瑜・魯粛ら抗戦派の意見を聞き入れ劉備と同盟し、曹操との合戦を決意する。孫権は周瑜・程普を左右督に任命し曹操に対抗した。かくして赤壁の戦いが勃発し、黄蓋らの活躍により孫権軍は大勝利をおさめた。

209年、妹である孫夫人を劉備を嫁がせ同盟を強固なものとする。

合肥の戦い

その後、孫権は自ら軍を率い進発し合肥へと進行する。合肥は張遼楽進李典らが寡兵で守っているだけであったが、張遼・李典の急襲により孫権軍は総崩れとなる。孫権は張遼に追撃され、逃亡するがその途上にある小師橋が落とされて追い詰められた。孫権は馬に乗ったまま見事川を飛び越え命からがら逃亡した。

濡須の戦い

やがて曹操自ら軍を率いて参戦し、呉・両軍は濡須で対峙した。甘寧の奇襲により一矢報いるが、戦線は膠着し曹操・孫権は和睦し、孫権は表面上曹操に臣下の礼をとった。

対蜀

関羽が北上した隙を突き孫権は呂蒙を荊州にへ進攻させ荊州を奪取し関羽を討った。その後222年、劉備が復讐の為に出兵し夷陵の戦いが勃発し、孫権軍は陸遜の指揮のもと劉備を見事打ち破った。同年、孫権は魏から呉王に封じられた。

老いて衰える

229年孫権は呉皇帝に即位する。その際、孫権の長子である孫登が太子に立てられるが早世してしまい、次子であった孫和が皇太子となるが、孫権は三子の孫覇を寵愛していた事から、孫覇は側近らと共に太子になるべく孫権へ孫登の讒言を繰り返し行った。

孫権は事態の収拾出来ずにいた。陸遜が孫権の優柔不断な態度を諫めるが孫権は激怒し、陸遜に流罪を命じる。252年、孫権は病に倒れ死去に際して諸葛格呂岱らを呼び後事を託した。その後死去した。享年71歳。

逸話

帝の相

孫権は劉琬より「一族の中で唯一長命で帝位に就く相である。」と評された。

三国志演義では

容貌

碧眼で紫髯といった異形の相とされている。

血縁

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