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呉(呉)

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222年280年 )、孫権が建国した国のこと。首都は建業孫晧の代でによって滅ぼされた。

概要

魏からの独立

孫権は父孫堅・兄孫策の後を継ぎ勢力を築いていたが、へ臣従の姿勢を表していた。しかし222年、夷陵の戦いの大勝もあり、魏より独立を宣言した。更に229年に孫権は皇帝に即位した。

後継者争い

孫権の息子であり太子であった孫登が早世したため、呉の家臣の中で三男孫和、四男孫覇らをそれぞれ擁立しよとする者が現れ後継者争いが勃発した。この内紛の中で孫権を諫めた陸遜は孫権に快く思われず問責にあいそれが元で憤死した。

最終的に孫権は孫和の官職を剥ぎ、孫覇を自害させ七男の孫亮を太子とし、孫権の死後は孫亮が10歳という若さで後を継いだ。

重臣による専横

孫亮が幼いのを良い事に諸葛恪が専横を振るった。やがて孫峻が諸葛恪を誅殺したが、孫峻も権力を手にすると諸葛恪と同様に専横を振るった。孫峻の死去後は孫綝にその権力は引き継がれた。孫亮は自身の復権を目指したが、孫綝に気付かれ皇帝の座を追われた。孫綝は孫権の六男孫休を帝位へと据えた。

孫休も孫亮と同様に皇帝の復権を目指していたが、表面上は孫綝への不満を露わにすることは無かった。しかし後に孫綝の誅殺に成功し皇帝復権を成した。

呉の滅亡

孫休ははじめ見事に政治を行っていたが、やがて学問に没頭する等浮世離れした生活を送るようになり、呉の政務は濮陽興張布らが行うようになった。263年、孫休が死去すると孫権の三男孫和の子の孫晧がその後を継いだ。孫晧は暴政を行い呉の国内は怨嗟の声で満ちた。やがて晋の侵攻が始まり呉は防ぎきれず滅亡した。

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