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劉繇(りゅうよう)

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劉繇りゅうよう156年197年)、字は正礼。劉は皇族の劉氏。劉岱の弟。揚州刺史

概要

実は名君

皇族と言っても皇室とは遠縁。普通に県令から出世していった。父を盗賊から助けたり、賄賂官僚を処断するなど、自らの危険を顧みない徳と手腕で名声を得た。兄・劉岱と共に評価され、その名声は朝廷におよび、揚州の刺史に任じられた(陳温の後任)。

袁紹派?

揚州統治の本拠と言えば九江郡の寿春だったが、ここは袁術が押さえたため、郡の曲阿を本拠地とした。袁紹曹操劉表らと、袁術孫堅公孫瓚に分かれて果敢に勢力争いをしていた時期と思われるが、劉繇は袁紹派だったことがわかる。孫堅の義弟・呉景と甥の孫賁は劉繇と戦って呉郡から追い出されている。

太史慈を軽視

配下に太史慈がいたが、太史慈は人物評の名手・許邵許子将)から酷評を受けていたので、劉繇は太史慈を重用していなかった。

孫策に攻められる

孫堅が亡くなり孫策が後を継ぐと、孫策は呉景・孫賁の雪辱を果たすべく曲阿に向かって攻め込んできた。重臣たちから孫策に太刀打ちできるのは太史慈と言われたが、それでも劉繇は太史慈を信頼せず、偵察任務のみ与えて孫策には張英をあたらせた。

張英は呉景・孫賁に打ち勝った勇将であるが、孫策はこれを瞬く間に撃破し、一気に曲阿まで迫った。劉繇は自ら出陣することになったが、そこでようやく太史慈に軍を与え、先陣に立たせた。しかし時すでに遅く、勢いづいた孫策軍に大敗し、劉繇は逃亡した。太史慈のみが残って抵抗を続けたが、孫策がほぼ揚州を平定すると、太史慈は孫策に仕えている。

その後

許邵の勧めで豫章に落ち延びた。豫章は諸葛玄朱皓が太守争いをしていた地であり、劉繇は朱皓を助けて太守に押し立て、自らの地位も何とか確保された。しかし付き従えて来た配下の笮融が裏切って朱皓を殺害してしまい、さらに豫章で略奪を尽くした。劉繇はこれに激怒して笮融を攻め滅ぼしたという。

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