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劉璋(りゅうしょう)

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劉璋(りゅうしょう生年不詳没年不詳)季玉劉焉の四男でその後を継ぎ益州を治めた。

概要

劉焉の後継者

荊州江夏郡竟陵の人。父である劉焉が死去すると趙韙王商らに擁立され後を継ぐ。漢中張魯が従わなくなった為、劉璋は張魯の一族を処刑し、龐義を巴郡太守に任じ李異と共に張魯を攻撃させたが悉く敗れてしまい、事実上張魯は独立を果たした。

その後、多くの流民が益州へ流入する。劉璋はそれらの者を取り立て「東州兵」と名付け組織した。東州兵の民への迫害行為が横行してしまい、劉璋は東州兵を御す事が出来なくなり、東州兵の問題を趙韙へと託した。当時、益州内は劉璋による民を鑑みない政治から不満が高まっていた。この事もあり、趙韙は荊州であった劉表と結び劉璋に対して反乱を起こす。各地で反乱に呼応する動きがあり、劉璋は成都へと立て篭もる。しかし趙韙は東州兵の反撃に遭い討たれた。趙韙が討たれた事により反乱は鎮圧した。

劉備を招き入れる

曹操が荊州へ侵攻したとの報せが入り、益州へも曹操の脅威が迫ってきた。劉璋は陰溥張粛らを曹操のもとへ遣わし友好を図る。荊州平定後も張松を使者として派遣する。しかし、この時の張松への曹操の対応は冷たいものであった。赤壁の戦いで曹操が敗れた後、帰還した張松は曹操との絶交を進言し、劉璋の一族でもあった劉備と盟を結ぶべきだと進言した。劉璋はこれを聞き入れ法正を使者として劉備のもとへ派遣した。

更に張松は内外に備える為、劉備自身を益州へ招聘すべきだと進言する。劉璋は黄権王累らの諫言も聞き入れず、法正を使者として遣わし劉備を益州へ招いた。

劉備に益州を乗っ取られる

益州へ入り張魯討伐へ向かった劉備だったが、張魯とは一戦も交えず、突如成都へ向かって進軍を始める。諸郡は次々と陥落し、とうとう成都は包囲された。はじめ劉璋は徹底抗戦の構えをとっていたが、「思い返せば父子二代に渡り二十年以上も統治してきたが、益州の民には何一つ功徳を施していない。」と恥じ、劉備軍の簡雍の説得を受け開城し降伏した。

その後、劉璋は公安へと送還される。その後荊州が孫権に奪取された後、劉璋は処刑されず益州牧に任じられたがまもなく死去した。

血縁

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